前     漢

八銖半両
漢が天下を統一した最初の頃は、市場の成り行きに任せて、民間の鋳銭を許していた。しかし莢銭も含め大小の銭が出回ると計算が煩雑になり、特に租税の取立てに不便であることから呂后の2年に至ってようやく幣制を立て、民の私鋳を禁じ、八銖銭を鋳た。この銭は史文のとおり概ね八銖の重さを保ったが、長続きせず僅か四年で止めた。
六銖半両(史文には掲載ない)
八銖半両の小型 戦国期半両
四銖半両
呂后の六年、民間では依然として莢銭が出回っていたことから、やむなく八銖半両の発行を止め、半両(十二銖)の五分の一である五分銭(二銖四累)を発行した。市場には益々莢銭が溢れた。文帝に至り、孝文五年四月、四銖銭を鋳た。官鋳だけでなく民においても銭重を四銖、原料を銅・錫に限るとの条件の下に鋳銭を許した。これが功を奏し文帝の貨幣政策は次の景帝六年に至るまで三十三年間続いた。
しかし景帝の六年に至り、また民間の鋳銭を禁じた。これより二十五年間は専ら官で鋳銭した。官鋳と民鋳との判別は難しいが有輪は後期のものとされている。
三銖
四銖半両は久しく流通したが、民間ではこれを削り取ったり、密鋳したりして四銖に足らない軽い銭が多く出回った。そのため武帝は元狩三年、これまでの半両銭を止め、銭重と銭文を一致させた三銖銭を発行した。すなわち銭の法定価値と実質価値との一致を図った。
周郭の無いものもあるが大抵は有輪である。この銭は武帝の意図に反してあまり普及せず、僅か一年で発行を止めた。
なお漢書では三銖銭の鋳造年を建元二年とし、同五年に止め再度四銖半両銭を発行したとする。中国では漢書説が一般的らしいが、武帝たるもの再び秦の定めた半両の文字を使用するのは考えにくい。ここでの説明は史記平準書に従う。

前漢五銖
1 郡国五銖
武帝は、元狩四年に銭の裏面にも周郭を施して、銭文を「五銖」とした銭を鋳造した。(漢書は元狩五年とする。)
銭の裏面に周郭を加えたのは画期的であった。これでさすがの姦民も銭を削り取ることが難しくなった。この五銖銭は郡国で鋳銭させたことから「郡国五銖」とも言われている。郡国といっても全ての郡国ではない。銅を産する郡または国を指し、当時の主な銅産地の丹揚郡、豫章郡、蜀郡、広陵国の三郡一国ではないかと言われている。なお政府直営の京師の鍾官で鋳造したかどうかは不明である。
初期銭
初期のものと思われるのは、周辺を磨かず、鋳張りの付いた儘となっている。
次期銭
鋳銭技術が向上し鋳張りを取り除いたり、縁を磨いたものなど清楚な銭の造りになっている。或いは京師で鋳られたものか。赤側銭に比べ銭径がやや大きく輪郭の厚さは薄い。
3 赤側五銖
赤側銭の鋳造開始年は史文上、必ずしも明確でないが元鼎元年の頃と言われている。郡国の俗吏が私利を得ようとして銅質を悪くしたので銭の価値が下がった。このため政府は京師の鍾官にて、銭の周囲をやや厚くしてこれを磨くと共に銅質の良い銭を鋳させた。そして租税には専らこれを用いることとし、赤側銭一枚を以って郡国五銖五枚の値とした。
 某説によると、史文の説明は口実であって、当時は匈奴征伐に多大な戦費を要したことから、逼迫した財政を救済する一手段として赤側銭を鋳造し、その目的を概ね達した元鼎四年にこれを廃し、同時に郡国の鋳銭も禁じたとするのがわかりやすいのではないかとしている。
 なお赤側銭の特徴を備えた鋳放し銭がある。赤側銭はあくまでも赤側でなければならないが、徹底できなかったのか、或いは赤側銭と平行して鋳られた郡国銭か。
4 三官五銖
元鼎四年、赤側銭を廃すると共に、郡国での鋳銭も禁じた。以後、専ら上林三官(均輸・鍾官・弁銅)で鋳造された。初期に鋳られた五銖を特に「三官五銖」と言い、宣帝期以後の五銖と区別している。特徴は周郭が均一で背がやや浅く清楚である。
5 宣帝五銖



私鋳銭